LOGIN大広間へ足を踏み入れた瞬間、セレナは肌に突き刺さるような視線を感じた。
王宮の夜会は、いつも華やかだった。 高い天井には、無数の蝋燭を灯した大きなシャンデリアが吊るされている。 磨き上げられた床には光が反射し、楽団の奏でる優雅な旋律が広間全体を満たしていた。 色鮮やかなドレス。 宝石を散りばめた髪飾り。 上等な酒を手に談笑する貴族たち。――誰もが笑っている。
けれど、セレナが姿を見せた途端、その笑い声はほんの少しだけ揺らいだ。
「あれが……」
「ええ。エヴァレット公爵家の」 「まさか、王宮へ連れてくるなんて」聞こえないふりをすることには、慣れていた。
セレナは灰色の布がずれていないことを確かめながら、父と母の後ろを歩いた。 少しでも銀髪がこぼれれば、誰かが不安そうな顔をする。 あるいは、あからさまに距離を取る。 それを避けるため、背筋を伸ばし、目立たないように歩く。――不思議なものだった。
目立つなと言われ続けてきたのに、何もしなくても視線だけは集まる。
忌むべき銀髪を持つ娘――その噂だけで、セレナはどこにいても人々の意識を引きつけてしまう。「――セレナ」
名前を呼ばれ、セレナは顔を上げた。
声をかけてきたのは父親のオズワルドだった。 広間の中央へ向かうことなく、壁際の一角を顎で示している。「そこで控えていなさい」
「はい、お父様」セレナは素直に頷いた。
王太子の婚約者であるなら、本来は彼の近くに立つべきなのだろう。 けれど、それを口にするつもりはなかった。 以前、一度だけアルベルトの隣へ近づこうとしたことがある。 王家主催の晩餐会で、婚約者として挨拶をする必要があると思ったからだ。 その時、アルベルトは露骨に顔をしかめた。「君は少し離れていてくれ」
声を荒らげたわけではない。
けれど、周囲に聞こえるには十分な声量だった。「その姿では、場の空気を暗くするだろう?」
王太子のその言葉を聞いて、誰かが小さく笑った。
その笑い声をセレナは今でも覚えている。 以来、自分からアルベルトの隣へ向かうことはなくなった。 今夜も同じだった――広間の中央には、金髪に青い瞳を持つ青年が立っている。――王太子アルベルト・ラウエンシュタイン。
整った顔立ちに柔らかな微笑みを浮かべ、周囲の貴族たちと言葉を交わしている。
傍目には、理想的な王太子に見えるだろう。 若く、華やかで、物腰も穏やか。 民衆の前では思いやり深く振る舞い、困窮する農村へ寄付をしたという話もよく聞く。 その隣で笑っているのは、セレナではなかった。「殿下、こちらのお菓子、とても美味しいですわ」
「そうか。君は甘いものが好きだったな」 「覚えていてくださったのですか?」 「ああ、もちろんだ」アルベルトの隣には、淡い桃色のドレスをまとったリリアーヌがいる。
金色の巻き髪が、灯りを受けて柔らかく輝いていた。 リリアーヌは楽しそうに微笑み、アルベルトもまた、彼女に向けて穏やかな表情を見せている。 婚約者であるセレナには、一度も向けたことのない表情だった。 胸の奥が、わずかに軋む。 けれど、それもすぐに押し込めた。 羨ましいと思ってはいけない。 自分は、あの場所に立つべき人間ではない。 幼い頃から、何度もそう言われてきた。 セレナは壁際に置かれた細い椅子へ腰掛けることもせず、静かに立つ。 そのまま、少し離れた場所で、数人の令嬢たちが囁き合っていた。「本当に連れていらしたのね」
「銀髪は隠しているけれど、何だか怖いわ」 「最近の魔物被害も、あの方が王宮へ上がるようになってから増えたのでしょう?」 「声を抑えて。聞こえてしまうわよ?」もちろん聞こえている――けれど、セレナは黙っていた。
何かを言い返せば、それだけで不気味だと言われる。 黙っていても、不気味だと言われる。 ならば、せめて騒ぎを起こさないほうがいい。――そう思ってきた。
「お姉様」
明るい声がして、周囲の囁きが止んだ。
顔を上げると、リリアーヌがこちらへ歩いてくるところだった。 アルベルトも、少し離れた場所からその様子を見ている。 リリアーヌは、誰からも見えるようにセレナの前で立ち止まった。「お姉様、お顔の色が優れませんわ」
心配そうに眉を下げる。
「無理をなさらず、壁際でお休みになってはいかが?」
その言葉に、近くにいた貴婦人たちが感心したように息を漏らした。
「まあ、お優しいこと」
「リリアーヌ様は、本当にお姉様思いでいらっしゃるのね」 「ご自分が殿下のお側にいらっしゃる時でさえ、お姉様を気遣われるなんて」リリアーヌは恥ずかしそうに微笑んだ。
「当然ですわ。大切なお姉様ですもの」
セレナは、何と答えればよいのか分からなかった。
大切――その言葉が、ひどく遠いものに感じられた。 離れに閉じ込められていた幼い頃、リリアーヌが訪ねてきたことはほとんどない。 たまに姿を見せても、姉を気遣うためではなかった。「フフ、本当に銀色なのね」
珍しいものを見るように、窓の向こうから髪を覗き込まれたことがある。
「お母様が怖がるのも分かるわ」
そう言って、リリアーヌは笑った。
あの時の声と、今の柔らかな声はよく似ていた。「お気遣い、ありがとうございます……では、少し休ませていただきます」
「ええ、そうなさって」リリアーヌは満足そうに頷いた。
まるで、姉を正しい場所へ戻してやったと言わんばかりに。 その場にいた貴族たちは、ますますリリアーヌへ好意的な視線を向けた。一方で、セレナを見る目には、憐れみと警戒が混じっている。
セレナは視線を伏せ、灰色の布の内側で、銀髪が首筋に触れる。 ひやりと冷たい感触だった。 楽団の演奏は続いている。 けれど、貴族たちの会話には、いつもと違う緊張が混じっていた。 森に近い街道が、また魔物に襲われたらしい。「今月に入って、三度目ですって」
「商人たちが王都へ入れなくなれば、困るわね」 「それだけではありませんよ。北部の村では、家畜が何十頭も消えたそうです」 「魔石鉱山でも事故があったのでしょう?」 「ええ。採掘場の奥で突然、魔力が暴れたとか」声を潜めていても、不安は隠しきれていない。
魔物の森は、昔から危険な場所だった。 それでも、近年ここまで被害が続いたことはない。 王都から離れた場所で起きていることとはいえ、貴族たちの生活にも少しずつ影響が出始めていた。 輸送が遅れ、食料の値段が上がり、魔石の供給も不安定になっている。 誰もが原因を求めていたのだ、分かりやすく、責めやすい原因を。「やはり、銀髪の……」
誰かが呟いた――セレナは聞こえなかったふりをした。
「あの方が王都へ上がられてからではありませんか?」
「でも、婚約が決まったのはずっと前でしょう?」 「王宮へ出入りするようになったことで、何かが乱れたのかもしれませんわ」 「ああ、恐ろしいこと」根拠など何もない。
けれど、根拠がないからこそ、噂はどこまでも広がっていく。――銀髪は災厄を呼ぶ。
この国では、昔からそう信じられてきた。
セレナ自身も、その言葉を否定できるほど強くはなかった。
自分が生まれたことで、母は苦しんだ。 父は家名を守るために悩んだ。 使用人たちは離れへ近づくことを恐れた。 もしも本当に、自分が何かを呼び込んでいるのだとしたら。 そう考えるたび、胸の奥が冷たくなる。「セレナ」
不意に名を呼ばれたので顔を上げると、そこに立っていたのはアルベルトだった。
彼は広間の中央でわずかに眉を寄せている。「顔色が悪いなら、無理に立っている必要はない」
「……そうですね、申し訳ございません」セレナは頭を下げた。
「謝る必要はない。だが、今夜は大切な夜だ」
その声は穏やかだった。
けれど、心配しているわけではないことは分かっている。 倒れて場を乱すな――そう言われているのだ。「承知しております」
セレナが答えると、アルベルトはそれ以上何も言わなかった。
すぐにリリアーヌへ視線を戻し、何事もなかったように会話を続ける。 セレナは、再び壁際へ身を寄せた。 少しだけ息苦しい。 布のせいかもしれない、あるいは、大広間に満ちた香水の匂いのせいかもしれない。 けれど、それだけではない気がした。――今夜は何かが違う。
リリアーヌだけが、妙に晴れやかな顔をしている、まるで、何が起こるのかを知っているように。
セレナがそう思った時だった。 楽団の演奏が、不自然なほど唐突に止まった。 弦楽器の余韻だけが、大広間の高い天井へ吸い込まれていく。 談笑していた貴族たちも、次第に口を閉ざした。 広間の奥にある大扉が、ゆっくりと開かれる。 白い法衣をまとった男が、神官たちを従えて現れた。――大神官ベルンハルト。
穏やかな笑みを浮かべながら、彼は広間の中央へ歩み出る。
そして、静まり返った貴族たちを見渡した。「――皆様」
柔らかな声が、大広間へ響く。
「今宵、王国を苦しめる災厄の正体を明らかにいたしましょう!」
大神官ベルンハルトが大広間の中央へ進み出ると、誰もが息を潜めた。 白い法衣は、床に届くほど長い。 胸元には神殿の紋章をかたどった銀の飾りが下がり、蝋燭の光を静かに返している。 痩せた顔立ち。 整えられた白髪。 穏やかな笑み。 その姿だけを見れば、長年にわたって王国を支えてきた敬虔な聖職者に見えた。 だからこそ、人々は彼の言葉を疑わない。「皆様も、すでにご存じのことでしょう」 ベルンハルトは、広間全体へ語りかけるようにゆっくりと言った。「近頃、魔物の森の周辺では異変が続いております」 それを聞いて、ざわめきが広がる。 先ほどまで囁かれていた話題が、大神官の口から改めて語られていく。「街道では、商人の馬車が襲われました。北部の農村では、多くの家畜が姿を消しております」 静かな声で、彼は告げる。 同時に誰かが不安そうに息を呑む。「魔石鉱山では、これまでにない規模の魔力暴走が起こりました」 広間の空気が、少しずつ重くなっていく。 並べられた言葉は、どれもセレナが先ほど耳にしたものだった。 けれど、大神官の口から語られると、噂話とは違う重みを持つ。「これは、一時的な異変ではありません」 ベルンハルトは、そう続けた。「森の魔力そのものが乱れているのです」 広間のあちこちで、顔を見合わせる者がいた。「そんな……」「では、これからさらに被害が広がると?」「王都まで魔物が押し寄せることもあるのですか?」 声を潜めていても、不安は隠しきれない。 ベルンハルトは、彼らの動揺を静かに見守っていた。 まるで、あえて恐怖が広がるのを待っているように。 セレナは壁際で立ったまま、灰色の布の端をそっと握りしめた。 布の内側へ押し込めた銀髪が、首筋へ触れている。 ひやりとした感触が、妙に鮮明だった。「――けれど、ご安心ください」 ベルンハルトの声が、再び広間へ響く。「神殿には、古くから伝わる記録がございます」 その言葉に、人々は一斉に大神官へ視線を向けた。 不安に沈んだ者が救いを求めるように。「森の災厄が目覚める時、必ず前触れが現れる」 ベルンハルトは、懐から一冊の古びた書物を取り出した。 濃い革の表紙には細かな傷があり、長い年月を経てきたことが分かる。「王国の古い伝承によれば、その前触れとは、銀髪を持つ娘の出現で
大広間へ足を踏み入れた瞬間、セレナは肌に突き刺さるような視線を感じた。 王宮の夜会は、いつも華やかだった。 高い天井には、無数の蝋燭を灯した大きなシャンデリアが吊るされている。 磨き上げられた床には光が反射し、楽団の奏でる優雅な旋律が広間全体を満たしていた。 色鮮やかなドレス。 宝石を散りばめた髪飾り。 上等な酒を手に談笑する貴族たち。 ――誰もが笑っている。 けれど、セレナが姿を見せた途端、その笑い声はほんの少しだけ揺らいだ。「あれが……」「ええ。エヴァレット公爵家の」「まさか、王宮へ連れてくるなんて」 聞こえないふりをすることには、慣れていた。 セレナは灰色の布がずれていないことを確かめながら、父と母の後ろを歩いた。 少しでも銀髪がこぼれれば、誰かが不安そうな顔をする。 あるいは、あからさまに距離を取る。 それを避けるため、背筋を伸ばし、目立たないように歩く。 ――不思議なものだった。 目立つなと言われ続けてきたのに、何もしなくても視線だけは集まる。 忌むべき銀髪を持つ娘――その噂だけで、セレナはどこにいても人々の意識を引きつけてしまう。「――セレナ」 名前を呼ばれ、セレナは顔を上げた。 声をかけてきたのは父親のオズワルドだった。 広間の中央へ向かうことなく、壁際の一角を顎で示している。「そこで控えていなさい」「はい、お父様」 セレナは素直に頷いた。 王太子の婚約者であるなら、本来は彼の近くに立つべきなのだろう。 けれど、それを口にするつもりはなかった。 以前、一度だけアルベルトの隣へ近づこうとしたことがある。 王家主催の晩餐会で、婚約者として挨拶をする必要があると思ったからだ。 その時、アルベルトは露骨に顔をしかめた。「君は少し離れていてくれ」 声を荒らげたわけではない。 けれど、周囲に聞こえるには十分な声量だった。「その姿では、場の空気を暗くするだろう?」 王太子のその言葉を聞いて、誰かが小さく笑った。 その笑い声をセレナは今でも覚えている。 以来、自分からアルベルトの隣へ向かうことはなくなった。 今夜も同じだった――広間の中央には、金髪に青い瞳を持つ青年が立っている。 ――王太子アルベルト・ラウエンシュタイン。 整った顔立ちに柔らかな微笑みを浮かべ、周囲の貴族たちと言葉を
「その髪が見えないようにしなさい」 冷たい声とともに、灰色の布が頭から被せられた。 薄暗い控室の鏡に映る自分の姿を、セレナは黙って見つめた。 彼女の腰まで届く銀髪は、布の内側へ押し込められている。 何本かこぼれ落ちた髪を、侍女が慌てて拾い上げ、見えないように隠していく――まるで、人目に触れてはならない汚らわしいものを扱うような手つきだった。「今夜は、リリアーヌの晴れの日なのだから」 鏡越しに母親であるマリアンヌの姿が見えた。 彼女は金色の髪を美しく結い上げ、淡い水色のドレスをまとっている。 社交界で称賛される公爵夫人らしく、その姿には隙がない。 ――けれど、母はセレナの名前を呼ばなかった。 幼い頃から、ずっとそうだった。 実の子だと言うのに、彼女の名を呼ぶことなど一度も――”セレナ”という名を母の口から聞いた記憶はほとんどない。「……申し訳ございません、お母様」 セレナが小さく答えると、マリアンヌはわずかに眉を寄せた。「謝罪は求めていませんから余計なことをしないで」「……はい」 反論しようとは思わなかった。 何を言っても、母をさらに不快にさせるだけだと昔からもう知っている。 慣れた事なのだ。 銀髪で生まれたことは、セレナ自身にもどうすることもできない。 それでも、幼い頃から何度も責められてきた。 ――お前の髪は不吉だ。 ――屋敷の外へ出てはならない。 ――人前に姿を見せてはならない。 ――誰かに見られれば、公爵家の恥になる。 いつの間にかセレナは、謝ることだけが上手になっていた。「お母様、こちらの髪飾りはいかがでしょう?」 明るい声が、控室の空気を変えた。 振り向かなくても、誰が入ってきたのか分かる――妹のリリアーヌだった。 淡い桃色のドレスは、幾重にも重ねられた薄布が歩くたびに柔らかく揺れ、母親と同じ金色の髪には、小粒の真珠と宝石を散らした髪飾りが添えられていた。 王都で今もっとも評判の仕立屋に作らせたものだと、使用人たちが話していた。「まあ、よく似合っているわ」 先ほどまで冷え切っていた母の表情が、春の日差しを受けたように和らいだ。「本当に綺麗よリリアーヌ。今夜はきっと、皆があなたに見惚れるでしょうね」「そんな、お母様ったら」 リリアーヌは恥ずかしそうに頬を染めた。 ただ、その様子を、セレ







