เข้าสู่ระบบ大広間へ足を踏み入れた瞬間、セレナは肌に突き刺さるような視線を感じた。
王宮の夜会は、いつも華やかだった。 高い天井には、無数の蝋燭を灯した大きなシャンデリアが吊るされている。 磨き上げられた床には光が反射し、楽団の奏でる優雅な旋律が広間全体を満たしていた。 色鮮やかなドレス。 宝石を散りばめた髪飾り。 上等な酒を手に談笑する貴族たち。――誰もが笑っている。
けれど、セレナが姿を見せた途端、その笑い声はほんの少しだけ揺らいだ。
「あれが……」
「ええ。エヴァレット公爵家の」 「まさか、王宮へ連れてくるなんて」聞こえないふりをすることには、慣れていた。
セレナは灰色の布がずれていないことを確かめながら、父と母の後ろを歩いた。 少しでも銀髪がこぼれれば、誰かが不安そうな顔をする。 あるいは、あからさまに距離を取る。 それを避けるため、背筋を伸ばし、目立たないように歩く。――不思議なものだった。
目立つなと言われ続けてきたのに、何もしなくても視線だけは集まる。
忌むべき銀髪を持つ娘――その噂だけで、セレナはどこにいても人々の意識を引きつけてしまう。「――セレナ」
名前を呼ばれ、セレナは顔を上げた。
声をかけてきたのは父親のオズワルドだった。 広間の中央へ向かうことなく、壁際の一角を顎で示している。「そこで控えていなさい」
「はい、お父様」セレナは素直に頷いた。
王太子の婚約者であるなら、本来は彼の近くに立つべきなのだろう。 けれど、それを口にするつもりはなかった。 以前、一度だけアルベルトの隣へ近づこうとしたことがある。 王家主催の晩餐会で、婚約者として挨拶をする必要があると思ったからだ。 その時、アルベルトは露骨に顔をしかめた。「君は少し離れていてくれ」
声を荒らげたわけではない。
けれど、周囲に聞こえるには十分な声量だった。「その姿では、場の空気を暗くするだろう?」
王太子のその言葉を聞いて、誰かが小さく笑った。
その笑い声をセレナは今でも覚えている。 以来、自分からアルベルトの隣へ向かうことはなくなった。 今夜も同じだった――広間の中央には、金髪に青い瞳を持つ青年が立っている。――王太子アルベルト・ラウエンシュタイン。
整った顔立ちに柔らかな微笑みを浮かべ、周囲の貴族たちと言葉を交わしている。
傍目には、理想的な王太子に見えるだろう。 若く、華やかで、物腰も穏やか。 民衆の前では思いやり深く振る舞い、困窮する農村へ寄付をしたという話もよく聞く。 その隣で笑っているのは、セレナではなかった。「殿下、こちらのお菓子、とても美味しいですわ」
「そうか。君は甘いものが好きだったな」 「覚えていてくださったのですか?」 「ああ、もちろんだ」アルベルトの隣には、淡い桃色のドレスをまとったリリアーヌがいる。
金色の巻き髪が、灯りを受けて柔らかく輝いていた。 リリアーヌは楽しそうに微笑み、アルベルトもまた、彼女に向けて穏やかな表情を見せている。 婚約者であるセレナには、一度も向けたことのない表情だった。 胸の奥が、わずかに軋む。 けれど、それもすぐに押し込めた。 羨ましいと思ってはいけない。 自分は、あの場所に立つべき人間ではない。 幼い頃から、何度もそう言われてきた。 セレナは壁際に置かれた細い椅子へ腰掛けることもせず、静かに立つ。 そのまま、少し離れた場所で、数人の令嬢たちが囁き合っていた。「本当に連れていらしたのね」
「銀髪は隠しているけれど、何だか怖いわ」 「最近の魔物被害も、あの方が王宮へ上がるようになってから増えたのでしょう?」 「声を抑えて。聞こえてしまうわよ?」もちろん聞こえている――けれど、セレナは黙っていた。
何かを言い返せば、それだけで不気味だと言われる。 黙っていても、不気味だと言われる。 ならば、せめて騒ぎを起こさないほうがいい。――そう思ってきた。
「お姉様」
明るい声がして、周囲の囁きが止んだ。
顔を上げると、リリアーヌがこちらへ歩いてくるところだった。 アルベルトも、少し離れた場所からその様子を見ている。 リリアーヌは、誰からも見えるようにセレナの前で立ち止まった。「お姉様、お顔の色が優れませんわ」
心配そうに眉を下げる。
「無理をなさらず、壁際でお休みになってはいかが?」
その言葉に、近くにいた貴婦人たちが感心したように息を漏らした。
「まあ、お優しいこと」
「リリアーヌ様は、本当にお姉様思いでいらっしゃるのね」 「ご自分が殿下のお側にいらっしゃる時でさえ、お姉様を気遣われるなんて」リリアーヌは恥ずかしそうに微笑んだ。
「当然ですわ。大切なお姉様ですもの」
セレナは、何と答えればよいのか分からなかった。
大切――その言葉が、ひどく遠いものに感じられた。 離れに閉じ込められていた幼い頃、リリアーヌが訪ねてきたことはほとんどない。 たまに姿を見せても、姉を気遣うためではなかった。「フフ、本当に銀色なのね」
珍しいものを見るように、窓の向こうから髪を覗き込まれたことがある。
「お母様が怖がるのも分かるわ」
そう言って、リリアーヌは笑った。
あの時の声と、今の柔らかな声はよく似ていた。「お気遣い、ありがとうございます……では、少し休ませていただきます」
「ええ、そうなさって」リリアーヌは満足そうに頷いた。
まるで、姉を正しい場所へ戻してやったと言わんばかりに。 その場にいた貴族たちは、ますますリリアーヌへ好意的な視線を向けた。一方で、セレナを見る目には、憐れみと警戒が混じっている。
セレナは視線を伏せ、灰色の布の内側で、銀髪が首筋に触れる。 ひやりと冷たい感触だった。 楽団の演奏は続いている。 けれど、貴族たちの会話には、いつもと違う緊張が混じっていた。 森に近い街道が、また魔物に襲われたらしい。「今月に入って、三度目ですって」
「商人たちが王都へ入れなくなれば、困るわね」 「それだけではありませんよ。北部の村では、家畜が何十頭も消えたそうです」 「魔石鉱山でも事故があったのでしょう?」 「ええ。採掘場の奥で突然、魔力が暴れたとか」声を潜めていても、不安は隠しきれていない。
魔物の森は、昔から危険な場所だった。 それでも、近年ここまで被害が続いたことはない。 王都から離れた場所で起きていることとはいえ、貴族たちの生活にも少しずつ影響が出始めていた。 輸送が遅れ、食料の値段が上がり、魔石の供給も不安定になっている。 誰もが原因を求めていたのだ、分かりやすく、責めやすい原因を。「やはり、銀髪の……」
誰かが呟いた――セレナは聞こえなかったふりをした。
「あの方が王都へ上がられてからではありませんか?」
「でも、婚約が決まったのはずっと前でしょう?」 「王宮へ出入りするようになったことで、何かが乱れたのかもしれませんわ」 「ああ、恐ろしいこと」根拠など何もない。
けれど、根拠がないからこそ、噂はどこまでも広がっていく。――銀髪は災厄を呼ぶ。
この国では、昔からそう信じられてきた。
セレナ自身も、その言葉を否定できるほど強くはなかった。
自分が生まれたことで、母は苦しんだ。 父は家名を守るために悩んだ。 使用人たちは離れへ近づくことを恐れた。 もしも本当に、自分が何かを呼び込んでいるのだとしたら。 そう考えるたび、胸の奥が冷たくなる。「セレナ」
不意に名を呼ばれたので顔を上げると、そこに立っていたのはアルベルトだった。
彼は広間の中央でわずかに眉を寄せている。「顔色が悪いなら、無理に立っている必要はない」
「……そうですね、申し訳ございません」セレナは頭を下げた。
「謝る必要はない。だが、今夜は大切な夜だ」
その声は穏やかだった。
けれど、心配しているわけではないことは分かっている。 倒れて場を乱すな――そう言われているのだ。「承知しております」
セレナが答えると、アルベルトはそれ以上何も言わなかった。
すぐにリリアーヌへ視線を戻し、何事もなかったように会話を続ける。 セレナは、再び壁際へ身を寄せた。 少しだけ息苦しい。 布のせいかもしれない、あるいは、大広間に満ちた香水の匂いのせいかもしれない。 けれど、それだけではない気がした。――今夜は何かが違う。
リリアーヌだけが、妙に晴れやかな顔をしている、まるで、何が起こるのかを知っているように。
セレナがそう思った時だった。 楽団の演奏が、不自然なほど唐突に止まった。 弦楽器の余韻だけが、大広間の高い天井へ吸い込まれていく。 談笑していた貴族たちも、次第に口を閉ざした。 広間の奥にある大扉が、ゆっくりと開かれる。 白い法衣をまとった男が、神官たちを従えて現れた。――大神官ベルンハルト。
穏やかな笑みを浮かべながら、彼は広間の中央へ歩み出る。
そして、静まり返った貴族たちを見渡した。「――皆様」
柔らかな声が、大広間へ響く。
「今宵、王国を苦しめる災厄の正体を明らかにいたしましょう!」
森の奥へ進むにつれて、空気が少しずつ変わっていった。 はじめは、セレナを呑み込もうとするような暗い森だった。 湿った土の匂いや木々の隙間から漂う濁った魔力、そしてどこかで息を潜める魔物の気配。 けれど、レグルスの後ろを歩いているうちに、その荒々しさが少しずつ薄れていくように感じたのは気のせいだろうか? 木々は相変わらず高く、枝葉は空を覆っているが、昨夜のような息苦しさはなかった。 風が通り、葉が揺れ、どこか遠くで水の流れる音が聞こえる。 魔物の気配も完全に消えたわけではないが、近づいてはこない。森そのものがレグルスを避けているようにも見えた。 セレナは、前を歩く彼の背中を見つめる。 彼の左肩にはまだ傷がある。 毒も抜けきってはいないはずなのに、それでも、レグルスの歩みに弱さはなかった。 黒髪の間から覗く狼の耳が時折かすかに動いて周囲の音を拾い、長い尾も森の気配に合わせるように静かに揺れている。 彼は一度も振り返らない——けれど、セレナの歩幅に合わせるように、速すぎない速度で進んでいた。 それに気づくたび、セレナはどうしてよいか分からなくなる。 そもそも彼女自身、気遣われることに慣れていない。 置いていかれないように必死で歩くことや、足手まといにならないよう黙って耐えることなら、ずっとしてきた。 けれど、誰かが自分の歩く速さに合わせてくれることには、慣れていなかった。「……疲れたか?」 前を向いたまま、レグルスが言った。セレナは慌てて首を横に振る。「いいえ。大丈夫です」「疲れたなら声をかけてくれ、いいな?」「……はい」 それは叱責ではなく命令のような言葉に聞こえた。 セレナは少しだけ戸惑いながらも頷くしかない。 疲れていないと言えば、これまでならそれで誰も気にしなかった。 倒れたとしても、体が弱いからだ、役に立たないからだと責められるだけだった。 けれど、どうやらレグルスは違うらしい——大丈夫ではないと判断すれば、セレナの返事に関係なく足を止めるつもりなのだ。 森の中をさらに進むと、空気に混じる匂いが変わった。 何かの煙の匂いと、焼いた木の匂い。 どこかで煮炊きしているような、温かな匂い――それは、人の暮らしの匂いだった。 セレナは思わず足を止めそうになったが、魔物の森の奥に、本当に国がある——書物
「帰る場所がないなら、俺の国へ来い」 差し出された手を、セレナは見つめていた。 それは、大きな手だった。 昨夜、黒狼の姿で牙を向けた相手と同じ存在だとは思えないほど、人の形をした手。 けれど、その手には確かな力がある。掴めば、きっと引き上げてくれる――そう思える手だった。 けれど、セレナはすぐに動けなかった。 レグルスの国である獣人国ヴァルグレイヴ。 魔物の森のさらに奥にある、人間の王国とは違う国。 そこは、人間を信用していない獣人たちが暮らす場所——そんな場所へ、人間である自分が行ってよいのだろうか。「……ですが、私は人間です」 ようやく口にできたのは、そんな言葉だった。 レグルスは眉一つ動かさない。「そんなの……見れば分かる」「獣人の皆様に、ご迷惑をおかけするかもしれません」「それは俺が決めることだ」 短い返事だったが、迷いはない。セレナは胸元の薬草袋を握りしめた。「ですが……」「……まだ何かあるのか?」 苛立っているような声にセレナは肩を震わせ、怒らせてしまったのだと思い、すぐに視線を伏せる。「その……申し訳ございません」「……」 レグルスは黙ったままセレネに視線を向けている。 責められるのでは、と思い、セレナはますます身を縮こまらせた。 けれど、次に聞こえたのは大きなため息だった。「俺は別に怒っているわけではない」「……はい」「怯えるなと言っても、無理だろうな」 レグルスは言いづらそうに言葉を切った。 命令する事には慣れていても、相手を安心させる言葉には慣れていない。そんな風に見えた。 セレナは恐る恐る顔を上げてみると、金色の瞳は鋭いのだが、そこにセレナを傷つけようとする色はなく、ただ不機嫌そうだった。 まるで、セレナが自分を当然のように低く扱うことが気に入らないと言いたげに。「その……私には、何もありませんよ?」 セレナは小さく言った。 口にしてしまえば、胸の奥に沈んでいた言葉が次々と溢れてくる。「私は、公爵家からも王家からも捨てられましたので……」 そのように言いながら、彼女は灰色の布の端を握る。 昨夜までセレナは王太子の婚約者であり、エヴァレット公爵家の長女だった。 けれど、それらはすべて取り上げられた。 婚約者という立場も、公爵令嬢としての価値も、家族から名を呼ばれ
鳥の声が聞こえた。 セレナはゆっくりと瞼を開けると最初に見えたのは、土に覆われた木の根だった。太く絡み合った根の隙間から朝の光が差し込み、夜の森を満たしていた闇は薄い青へ変わっている。 朝——そう気づいた瞬間、セレナは小さく息を吸った。 生きている。魔物の森で、夜を越した――いいえ、一人ではなかった。 毒矢を受けた黒狼がいたはずだ。血の匂いに引き寄せられた魔物から逃れるため、二人で巨木の空洞へ身を隠した。 疲れ果てたセレナは、黒狼の温もりに寄り添うようにして眠った。 その温かさは、まだすぐ近くにある。 セレナは顔を上げ、そして、息を止める。 隣に、黒狼はいなかったのだ。 代わりに、見知らぬ青年が横たわっている。黒い髪が肩にかかり、長い睫毛の奥に閉じられた目。高い鼻梁と血の気の薄い唇。だが、何よりも目を引いたのは、黒髪の間から覗く狼の耳だった。 黒い狼の耳。そして、腰のあたりには黒い尾——人間ではない。獣人だ。 セレナは遅れて理解した。自分は知らぬ青年に寄り添うように眠っていたのだと。「……っ!」 慌てて身体を起こす。腕の傷が痛んだが、それどころではない。 セレナは巨木の根に背をぶつけながら距離を取り、胸元の薬草袋を抱えた。 青年の瞼が動き、次の瞬間、金色の瞳が開いた。 それは、昨夜黒狼が見せたものと同じ瞳だった。鋭く、深く、闇の中でも光を失わなかった金色。 きっと、この青年があの黒狼なのだ。「――目が覚めたか」 低く掠れた声で、声をかけてきた。 青年は上体を起こそうとして、わずかに眉をひそめる。 左肩には、セレナが巻いた布が残っており、それは夜会用のドレスの袖を裂いたみすぼらしい包帯は、人の姿になった事で少し緩んでいる。「あ……動かないでください!」 セレナは反射的に言った。 「毒がまだ抜けていないかもしれません!傷も開きます!」 言ってから、慌てて口を閉じる。 相手は獣人——それも、黒狼の姿になれるほどの力を持つ者。 青年はセレナをじっと見た。「……自分の傷は放っておいて、俺の心配か?」 セレナは、そこでようやく自分の右腕を見た。 服の布で押さえてはいるが、血は乾いて硬くなり、痛みも残っている。「これは、大したことではありませんから……」「大したことかどうかは、俺が見て決める」 まるでそれは、
枝が折れる音が、闇の奥から近づいていた。 一つではない。 右、左、そして正面から。 低いうなり声がいくつも重なり、夜の森を震わせている。 セレナは息を殺してみる。 血の匂いに引き寄せられたのだ。黒狼の傷から流れた血。矢に塗られていた毒の匂いがあり、そして、セレナ自身の腕から滲む血。それらが、森に棲む魔物たちを呼んでしまった。 黒狼は、地面に伏せたまま耳を立てている。 金色の瞳には先ほどまでとは違う鋭さが戻っていたが、立ち上がることはできない。 狼の毒はまだ身体を蝕み、傷口を押さえた布にも血が滲んでいた。 このままでは戦えない——セレナは喉を鳴らした。 自分にも戦う力はないし、そもそも剣も持っていないし、魔物を倒す術も知らない。 ――けれど、知識ならある。 離れで読んだ本。クララが届けてくれた古い記録。 森で夜を越すために必要なこと。 魔物の群れに見つかったとき、真正面から逃げてはならない。 血の匂いを広げず、風下へ回られてもいけない。 身を隠せる場所を探し、音と匂いを抑えるのだ。 セレナは周囲を見回した。 月明かりは薄く、木々の影が複雑に重なってどこに何があるのか分かりにくい。それでも目を凝らしてみる。 低い茂み、倒れた木、岩場、そして少し離れた場所にある古い巨木を見つけた。 根が大きく地面から盛り上がり、その下に黒い影が見える。(……あ、空洞) そこには人一人が身を潜めるには十分な大きさがあるように見える。 黒狼の巨体まで隠せるかは分からないが、このまま開けた場所にいるよりはましだった。「動けますか」 セレナは黒狼へ囁いた。 黒狼は低く息を吐くが、返事ではない。 けれど、金色の瞳がセレナを見ている。 セレナは毛布を広げ、黒狼の血で濡れた布をそのままにしておけば匂いが広がる——せめて傷口を覆い、地面へ血が滴るのを防がなければならない。ローウェンが渡してくれた毛布を使うしかなかった。 毛布を黒狼の肩へかけ、傷の上から押さえるように巻く。黒狼が苦しげに唸った。「すみません……それでも、少しだけ我慢してください」 その言葉が通じたのか、黒狼は暴れなかった。 セレナは毛布の端を結ぶと、黒狼の首元へそっと手を添える。 熱い――毒のせいで身体が熱を持っている。それでも、その熱は生きている証だった。「こちらで
黒狼の牙が、喉元へ迫っていた。 セレナは地面に倒れたまま、息を止めた。 逃げなければ――そう思うのに、身体が動かない。 肩のすぐ横には、黒狼の太い前足がある。 ほんの少し爪が動いただけで、土が深く抉れていた。 この獣が本気になれば、セレナの細い首など簡単に噛み砕かれるだろう。 黒狼の息が、頬にかかる。 血と毒の匂いが混じった、熱い息だった。 金色の瞳が、セレナを見下ろしている。 怒り、警戒、そして痛み。 その全てが、鋭い光となって宿っていた。 セレナは、震える手を胸元へ引き寄せた。 黒狼の牙は、喉元のすぐ近くで止まっている。けれど、噛みつかない。 セレナが逃げないからだろうか。それとも、逃げる力がないと分かっているからだろうか。 ――分からない。 けれど、まだ生きている。 それなら、まだできることがある。「……怖くないわけではありません」 声が震えた。 それでも、セレナは黒狼から目を逸らさなかった。「でも、ここで逃げたら、あなたは死んでしまいますから」 その言葉を言った瞬間、黒狼の瞳が、わずかに揺れた気がした。 人間の言葉が分かるのかどうかは分からない。 けれど、その喉の奥で鳴っていた唸り声が、少しだけ弱まった。 セレナはゆっくりと手を動かす。 急に動けば、また牙を向けられるかもしれない。 だから、黒狼に見せるように、少しずつ。「傷を押さえますね」 地面に落ちていた布を取り、矢を抜いた傷口からは、血が流れていた。 黒い毛並みを濡らし、草の上へ落ちていく。 このままでは出血が多すぎる。 セレナは上体を起こした。 黒狼の前足が、ほんの少しだけ横へずれる。 逃げ道を開けたのか。 それとも、力が抜けただけなのか。 しかし、今はどちらでもよかった。 セレナは、黒狼の肩へ布を押し当て、黒狼の身体がびくりと震えた。 牙がむき出しになり、セレナの指先も震えた。 それでも、手は離さない。「すぐに終わらせます」 自分でも、頼りない声だと思った。 けれど、何も言わないよりはましだった。 水筒を開け、傷口の周囲を少しずつ洗う。 毒に触れて変色した血が流れ落ち、土へ染み込んでいった。 紫がかった色――やはり、毒が回っている。 セレナは薬草袋を開いた。 先ほど水で戻した薄紫の根を指で潰し、傷
血の匂いは、木々の奥から流れてきていた。 セレナは水筒を抱えたまま、その場に立ち尽くした。 行ってはいけない。 頭のどこかで、冷静な声がそう告げている。 夜の森で血の匂いがする場所など、危険に決まっている。 怪我をした獣がいるのかもしれない。 魔物が獲物を食らっているのかもしれない。 近づけば、自分も襲われる。 それくらい、セレナにも分かっていた。 けれど、低い唸り声は、怒りだけではなく苦痛を含んでいるように聞こえた。 苦しんでいる。 誰かが、あの奥で。 セレナは、胸元の薬草袋を握りしめた。 逃げるべきだ。 そう思うのに、足は動かなかった。 離れで暮らしていた頃、クララが言ったことを思い出す。「お嬢様、怪我をした獣に不用意に近づいてはいけませんよ。痛みで我を忘れて、人を傷つけることがありますから」 幼いセレナは、本を抱えたまま頷いた。「では、見つけても助けてはいけないのですか?」 クララは困ったように笑った。「助けたいと思うことは、悪いことではありません」 それから、少しだけ声を落とした。「ただし、ご自分の命も大切になさってください」 自分の命。 セレナは、その言葉を思い出して、ほんの少しだけ苦笑した。 今夜、王国に捨てられた命だ。 家族も、王太子も、神殿も、誰も惜しまなかった命。 それを大切にするとは、どういうことなのだろう。 また、低い唸り声が聞こえた。 今度は、先ほどよりも弱い。 セレナはゆっくりと息を吸い、音のする方へ足を踏み出した。 枝を踏まないように気をつける。 茂みを手で押し分けるたび、濡れた葉が指先を冷やした。 血の匂いは強くなっていく。 同時に、別の匂いもした。 苦い薬草のような、鼻の奥を刺す匂い。 毒。 そう気づいた瞬間、セレナは足を速めた。 森の中の開けた場所に出た。 月明かりが、わずかに差し込んでいる。 そこに、巨大な黒狼が倒れていた。 セレナは息を呑んだ。 狼と言うには、あまりにも大きい。 立ち上がれば、セレナの背丈を優に超えるだろう。 黒い毛並みは夜の闇に溶け込むほど深く、けれど月明かりを受けた部分だけが青みを帯びて光っていた。 前足は太く、爪は鋭い。 口元から覗く牙は、獣ではなく魔物のものに見えるほど大きかった。 その巨体が、地面へ横たわっ
馬車を降りると、冷たい夜気が頬を刺した。 王都の空気とは違う。 湿った土の匂いと、濃い木々の匂い。 そしてどこか鉄に似た、鋭い魔力の気配。 目の前には、魔物の森が広がっていた。 高く伸びた木々が、月明かりを遮っている。 森の奥は黒く沈み、道と呼べるものはほとんど見えない。 風が枝を揺らすたび、葉擦れの音がざわざわと広がる。 まるで、森そのものが低く囁いているようだった。「……エヴァレット公爵令嬢」 ローウェンの声がした。 振り返ると、彼は馬車の横に立っていた。 顔色は悪く、けれど、何かを決めたように、手に持っていたものを差し出してくる。 水筒と、小さな毛布だった。
王宮の裏手には、すでに一台の馬車が用意されていた。 夜会へ向かう貴族たちが使う華やかな馬車とは違う。 飾り気のない黒塗りの車体で、窓には厚い布がかけられ、外から中の様子は見えないようになっている。 まるで、人目につかないうちに何かを運び出すための馬車だった。 セレナは、王宮の裏口に立ったまま、その馬車を見つめた。 少し離れた場所には、鎧をまとった騎士が一人いる――その顔に見覚えがあった。 王宮で何度か姿を見かけたことがある。 王国騎士のローウェン。 彼はセレナと目が合うと、わずかに身体を強張らせた。「エヴァレット公爵令嬢」 呼びかける声が、ほんの少し掠れていた。「こち
夜会が終わるよりも先に、セレナは公爵家の控室へ戻された。 大広間を出る間も、背中には無数の視線が突き刺さっていた。 哀れむような目。 恐れるような目。 そして、安堵したような目。 ――銀髪の娘が森へ送られる。 これで災厄は鎮まる。 これで自分たちは助かる。 誰もが、そう信じようとしているのだろう。 控室の扉が閉まると、楽団の演奏も、貴族たちの囁きも遠くなった。 室内には、公爵家の者だけが残された。 家族が四人そろって同じ部屋にいる。 それ自体が、ひどく珍しいことだった。 幼い頃から、セレナは屋敷の離れで暮らしていた。 家族と同じ食卓につくこともない。 誕生日を
「セレナ・エヴァレット」 王太子アルベルトの声が、大広間へ響く。 楽団の演奏は止まったままだった。 貴族たちは誰一人として動かない。 誰もが息を潜め、これから告げられる言葉を待っている。 壁際に立つセレナへ、無数の視線が向けられていた。 銀髪の娘が、自分たちの代わりに森へ差し出される――と言うような視線を向けて。 セレナは、灰色の布の内側でそっと息を整えた。 大神官ベルンハルトから、森へ行くよう命じられた。 リリアーヌから、国民のために耐えられるかと問われた。 そして今度は、アルベルトが自分を見ている。 ――婚約者としてではない。 役目を終えた道具を見るような目で。







